Mad Max: Fury road

この記事はプログラマの映画 Advent Calendar 2015の21日目です。


 

とにかく見ろ

 


年を越しても誰も書かなかったので、書きました。結局一番執筆しました。

いやー、映画って、ホント、素晴らしいですね。

 

 

 

広告

コングレス未来学会議

この記事はプログラマの映画 Advent Calendar 2015の19日目です。


 

予告編はこちら

公式サイトはこちら

http://www.thecongress-movie.jp/

宮台真司による絶賛はこちら

「フォルメン監督『コングレス未来学会議』は夢と現実の関係についての最高峰の考察だ」

http://blogos.com/article/128522/


本作に関しては、先の宮台真司による批評がすべてを貫徹しています。。

「現実を生きるためには、現実に稔りがなければならない。だが、稔りのない現実しかないのなら、現実を捨てて、夢に向かうことを責められるのか?」

プログラマが相手にしているものは、物理空間ではなく情報空間、つまり「夢」に相当するものです。我々は夢を操る存在です。換言すれば、ただの文字列に過ぎないものを、あたかも事実のように受け取っている人間は、常に夢を見ているに過ぎない。この文章だって、よく見れば所詮は光の点滅です。我々は光の点滅と紙に書いてあるシミを「文字」として情報処理し、その意味論、統語論的状況から、文意を「情報」として受け取っているだけに過ぎません。我々が、赤信号で止まるのは、そのような物理法則があるからではありません。交通ルールという「情報」があるからこそ、止まるという概念の把握と選択が可能になるのです。

しかし、薬理効果によって、情報に歪みを生じさせた場合、我々の「現実」は歪まずに存在していられるのでしょうか?もっと言えば、これを読んでいるあなたは今、薬理効果の影響下ではない、と言い切れるのでしょうか。多くの場合、絶対にそうではありえません。我々の脳に通じる経路には、ある一定の物質しか通さないゲートのようなものがあり、そのゲートを通過して、快楽や苦痛を経験することになります。ゲートを通過しやすい物質の一つにアルカロイドというものがあり、麻薬と言われるものは、このアルカロイドを利用します。

それじゃあ、麻薬を禁止しよう。そうはいきません。アルカロイドはすでに私達の体内に存在しており、アルカロイドの存在や生成を否定することは、私達が生きること自体を否定することになりかねません。

じゃあ、麻薬の生産は禁止できないんだね?そう単純にも言い切れません。麻薬によって引き起こされる犯罪が重篤な社会的、治安的危機を引き起こすが故に、公共の福祉に基づいて、我々は法理学的に麻薬を禁止する必要があります。

このように、我々の多くの問題は逆説を伴って現れます。「できないことはわかっているけれど、やるしかない」まさに「不可能と不可避性」が立ち現われてくるわけです。

「現実に稔りがないから、現実のために夢を用意してやろう」・・・・まさに不遜な態度かもしれません。しかし、その不遜さをわかった上で、社会構築に乗り出せるか、夢を夢でしかないと知りつつ、現実のためにフィクションを用意すること。フィクションがファンクションするために必要なのは、プログラムです。人々の心にフィクションを埋め込むことが、プログラマーの使命なのです。

「わからないで前に突き進むのか、それとも判ったうえで、間違いであることを知りながら、前に進む」のか。プログラマーはつねに後者でなければなりません。プログラマーはクリエイターなのです。

 


 

明日はSubaru365さんです

 

PSYCHO-PASS 

この記事はプログラマの映画 advent calendar 2015 の第14回目の記事です。

 

今回は、アニメを取り上げます。

PSYCHO-PASS (シーズン1)

近未来の日本では「シビュラシステム」という複合型分散ネットワーク計算機によって、人類は職業適性から犯罪係数までを常時監視され、全ては統合されたシステムの範疇で動かされています。主人公たちが属する公安警察は、特殊な銃を用いて、犯罪係数を元に潜在犯と凶悪な事件を解決していきます。

しかし、システムが機能しない事態、犯罪係数が平常値のままなのに、凶悪な犯罪を犯す凶悪犯が出現します。そして、システムエラ=から判明する「シビュラシステム」の実態とは・・・・

<システム>への盲目的な依存の危険性と、人倫の法の限界、自由とは何か、「人間らしい」とはいかなることなのか、人に人を裁けるのか、権力は果たして悪なのか、善なのか。そして、よかれと思って作り出したものが結果的に意図せぬ悲劇を生み出すという必謬性、「するも選択、せざるも選択」という社会で、我々はいかにして生きるのが、ということを読み解くのに優れた作品です。

プログラマーは設計者であり、教育者であり、創造主であり、破壊者であり、また一介の人間に過ぎません。人に言われたことをしているだけだったら、その人は単なるコーダーで、プログラマーではありません。何かを想像し、創造し、送像すること。まさに、ビジョンを示し、実現させるのが「プログラマー」の条件の一つなのかもしれません。

 

明日は henteko さんです。

インターネットの申し子 天才アーロン・シュウォルツの軌跡

この記事はプログラマの映画 advent calendar 2015 の12回目の記事です。

 

クリエイティブ・コモンズとして、無料で視聴が可能。日本語字幕他あり

https://www.amara.org/ka/videos/5Mo4oAj1bxOb/ja/766848/

Netflixでも配信中。そちらのほうが画質が綺麗かも。筆者はNetflixで視聴した。

アーロン・シュワルツ(スオーツだったり、シュウォルツだったり表記が統一していない。本稿では以後「シュワルツ」で統一する)の説明。普段はウィキペディアは当てにならないのだが、制作貢献者の一人だしいいかな。

 

何が天才ネット活動家を死に追いやったのか

http://www.videonews.com/commentary/130119-01/

かの、ローレンス・レッシグも出演している。日本だとあまり報道されていないが、レッシグはクラウドファンディングで資金を集めて、民主党大統領候補戦に立候補している。候補戦のディベートに参加させてもらえなかったりと、不遇の扱いを受けているのだが、私としては彼に大統領になってほしい。

 

70年談話とレッシグ出馬、サンダース躍進の衝撃

http://www.videonews.com/commentary/150815-01/

 

映画の前置きが終わったところで本題に入ろう。無料で見ることができるので「とにかく見ろ」と言いたいところだが、それでは随分と味気ない。

彼の生涯と、政府によるインターネット・表現の自由への抑圧の過程を克明に記した名作である。問題については、先の「何が天才ネット活動家を死に追いやったのか」の説明だけでも読んでもらえるとわかりやすい。誰も損失がない公開論文の大量ダウンロードと一般公開が、なぜ執筆者の不利益になるのだろう。彼に課される罪はせいぜい罰金刑程度で、しかもせいぜい家屋侵入罪でしか裁けない。著作権をどうやって公開論文で侵害するというのだろう。かれは剽窃すらしていない。ソクラテスではないが、彼に与えられるべきは罰による制裁ではなく、知の拡大を促した賞賛であり、議事堂での会食である。なんならMITが勲章を上げてもいいぐらいである。

プログラム言語はもともと学術研究の場から生まれてきたものだ。どんな人にもプログラミングを行う権利がある。政府に権利を奪われれば、プログラム言語が一部の人のものになれば、ブログを書くことが許可制になれば、我々の表現と言論の自由は奪われる。プログラマーは須く、プログラム言語とプログラミングの自由化、知の自由化、言論と表現、制作と発表の自由化の恩恵を受けている。それこそがまさに人間性であり、インターネットの、Webの理念だったはずだ。

彼は当局に殺された。だが、彼の精神は受け継がれている。プログラマーが自由の信念を捨てた時、その人はプログラマーではない。単なるコーダーである。プログラムとは、創造であり、破壊であり、独立することだ。この映画はそのことを再確認させてくれる。

 

 

 

 

 

シェアハウスとシェアもどき 分かち合いの系譜学

この記事はギークハウス Advent Calendar 2015 の8回目の記事です。


  • 書いている人はギークハウスの住民ではない。(ギークハウス元住吉の半住民を襲名?しています)
  • 筆者がよく訪問するのは、ギークハウス元住吉、ついでギークハウス横浜が多い。ギークハウス新丸子は前の2つと比べると、訪問回数が少ない。ときさば系やその他のギークハウスを訪問したのは片手で数えるほどである。よって、元住吉と横浜の話を中心に書く。それ故、本稿における「ギークハウス」の概念が、かなり偏ったものであることに留意頂きたい。

  • 筆者がギークハウス元住吉を最初に訪れたのは、 2012年の秋であったと記憶している。デヴィット・フィンチャー「ソーシャルネットワーク」を英語で見る会(アメリカの超一流大学院を卒業した人の解説付き。今考えるとかなり贅沢なことである)に参加したのが、ギークハウスというものの原体験だった。シェアハウス自体は、渋谷の某有名ハウスで体感していた。筆者がギークハウスを知ったのは、某有名シェアハウスでのパーティーの場である。
  • 元住吉は、某ハウスに比べると、随分と小奇麗だった。管理人が常駐しているのもあるが、整備が行き届いていた。今訪れても、日本一きれいなギークハウスというのは決して誇張ではない。渋谷の某ハウスがカオス(混沌)であるならば、ギークハウスはノモス(秩序)の空間である。
  • その当時の元住吉の住人は(今でも変わらないが)いい意味で生産的な人が多かった。筆者がプログラミングを始めたのは、以前住んでいた凄腕プログラマーの影響によるところが大きい。凄腕プログラマーの方でも、筆者の教養と知性を高く評価してくれている(と思う)。
  • ギークハウス元住吉では、毎週もくもく会を開催していた(現在は不定期開催)ので、週末はもくもく会、みたいな状況が半年ほど続いたことがあった。いろいろな方と意見交換や専門知識を教え合ったりして、筆者にとってはとてもよい刺激になった。興味のある方は、このブログで「もくもく会」」元住吉」で検索していただければ、まとめ記事が出てくる。よろしければご一読を。
  • 総じて、元住吉の切磋琢磨しあう雰囲気、専門知識を尊敬し、新住人を包摂する文化を私は好んでいる。後述するギークハウス横浜にも当てはまるが、新しく入ってきた人々を包摂することができなければ、そのコミュニティは必ず劣化する。
  • ギークハウス横浜は、率直にいえば、最初に訪れた時はあまり好きになれなかった。元住吉と某ハウスのイメージが強すぎたのだろう。(どちらとも極端な事例なので無理もない)
  • 今のギークハウス横浜はとても好きである。地域の人々と交流し、清潔感を増して、イベント開催にも積極的だ。古参の住人が新しい住人を包摂する文化もある。総じて、最も東日本橋から流れるギークハウスの精神、つまり、社会的な包摂と、新旧住人の対立を乗り越えたギークハウスの一つである
  • シェアとは何か。宮台真司がギークハウスを取り上げた対談でなかなか興味深い指摘をしている。以下の引用はすべて下記URLからの転載である。 http://10plus1.jp/monthly/2014/06/issue-2.php
  • 「シェア」が目立つようになったのは5年ほど前からでしょうか。その頃の夢あふれる感じは、シェアハウスの創立に関わった人々から失われて、人の善意を信頼するだけじゃダメという認識が拡がりました。3.11震災の際、ギークハウスが帰宅困難者にスペースを提供したのを起爆剤に「シェア」の考え方が拡がればいいと思ったのですが……。

  • ユルゲン・ハーバーマスの「生活世界」と「システム」という対概念です。マックス・ウェーバーによれば、近代化とは、計算可能性をもたらす手続きが各所に拡大することですが、そうして計算可能になった領域がシステムで、残りが生活世界ということになります。
    システムは、マニュアルに従って役割を演じられれば誰でもいいという具合に、人間を入替可能な道具として扱います。システムが導入された当初は、生活世界を生きるわれわれが、もっと便利で豊かになるための手段として、システムを使うのだと意識されました。ところが、システムが拡大し続けた結果、システム依存ゆえの本末転倒が起こります。
    第一に、ハーバーマスが言うように、生活世界を生きるわれわれがシステムを使うというより、システムが生活世界を生きるわれわれを道具にすると意識され、尊厳が脅かされます。第二に、災害社会学者レベッカ・ソルニットが言うように、巨大システムが災害や原発事故で破壊されれば、システム依存的な生活世界は一巻の終わりだと意識されます。
    第三に、昨今政治学領域でキャス・サンスティーンやジェームズ・フィッシュキンが言う通り、巨大システム依存と生活世界空洞化によって感情的安全を損なわれた人々の、不安と鬱屈を当て込んだ感情政治=ポピュリズムが、政治的暴走を招き寄せて、巨大システム自体をそれに依存する生活世界もろとも破壊してしまう危険が意識されます。
    3.11の原発事故で明らかになった、とりわけ日本人がシステムに過剰依存しやすい問題があります。システムは本来、山があり川が流れているという自然の自明性と違い、社会的アクシデントをきっかけに回らなくなる脆弱さを内包します。だから制度や人心の空洞化や機能不全がないように絶えずモニターし、随時メインテナンスする必要があります。
    ところが、丸山眞男が「日本人における作為の契機の不在」と述べたように、日本には、モニターとメンテナンスがなければ社会が回らなくなるとする発想がなく、自然がそこにあるように社会を自明なものだと見なす伝統があります。その結果、システムが災害で回らなくなる可能性が意識の外に押し出され、システムに過剰依存しがちなんです。

  • かくして〈社会はどうあれ、経済&政治は回る〉ようになります。先の言葉を使えば〈生活世界はどうあれ、システムは回る〉ということ。そうなればなるほど、(1)主客転倒で尊厳が奪われること、(2)システムクラッシュで一巻の終わりになること、(3)〈感情の政治〉(=ポピュリズム)でシステムが暴走する危険があること、などが意識されるようになります。
    論理的に考えると、これに抗う方法は、〈システムはどうあれ、生活世界は回る〉ないし〈政治&経済はどうあれ、われわれは回る〉と言えるような〈生活世界をシェアするわれわれ〉を再構築するしかありません。市場原理主義とは区別された相互扶助領域としての「狭義の社会」を──「広義の共同体」を──取り戻す他ないということです。

  • コミュニケーションは離合集散の流動性を高め、低い流動性を前提とした人格的信頼に関わる「立派/浅ましい」という伝統の二項図式が機能しなくなるかわりに、「うまくやる/しくじる」という二項図式が専らになります。動機づけには損得勘定の〈自発性〉ばかり蔓延して、内から湧き上がる利他や貢献欲である〈内発性〉が珍しくなります。
    浅ましい輩が後ろ指をさされるネガティブ・サンクション=罰が失われる結果、「悪貨が良貨を駆逐する」の類で、ネットにはますます〈感情の劣化〉と〈教養の劣化〉を反映したコミュニケーションが蔓延します。主題化された外交や内政の問題より、噴き上がる側の〈感情の劣化〉と〈教養の劣化〉だけが印象づけられる「2ちゃんねる」が典型です。
    ネットでは、インナーサークルでは「仲間外しの疑心暗鬼」と「プライバシー侵害の疑心暗鬼」が蔓延し、アウターサークルでは「匿名に身を隠した誹謗中傷への怯え」が蔓延します。こうした疑心暗鬼や怯えが、対面コミュニケーションでの不毛な過剰同調を招き寄せ、性愛においても友愛においてもストレスフルな日常になっているんです。

  • シェアハウスがうまくいかなくなるとすれば、その理由は畢竟、損得勘定を超える動機づけが乏しいからでしょう。〈自発性〉が優位で〈内発性〉が欠けるからでしょう。街づくりと同じで、人々がより便利で低コストならどこにでも転居しようと思っている場合、フリーランディングへの疑心暗鬼から、予めコミュニケーションをセーブしがちになります。
    僕は、周りの人たちが被ったシェアハウスの失敗を思考の材料にしているので、小手先の弥縫策はともかく、最終的には動機づけの形式を焦点化しない限り、さして稔りのある共同生活にはならないと思っています。先ほどの言い方を使えば、コスト低減が目的となるばかりで、かつての家族では不可能になったものを取り戻すことは目的になりえません。
    僕がやるワークショップが現実に提供できるのは、性愛コミュニケーションに稔りがない理由、シェアハウスに稔りがない理由、学校や会社でのグループワークに稔りがない理由を、洞察する力を与える所までです。大半の理由は損得勘定を超える動機の不足ですが、損得勘定を超えた動機とはどんなものか、「感じ」を摑んでもらうのも追加の目的です。

  • 大人は誰もが自分が育った時代の記憶を持ちます。自分がなにをどう体験をしたのかを吟味し、子供から奪ってはいけない体験がなんなのか気づく必要があります。むろん社会的リソースが違うので、かつて自分が体験できたものをそのまま再現はできませんが、いま使えるリソースをどう組み合わせて機能的に等価な体験をデザインできるかがポイントです。

  • 20年前に僕が世間に援助交際の存在を知らしめたとき、性の自己決定が大切だ、なにごとも自己決定が大切だと説き、『〈性の自己決定〉原論──援助交際・売買春・子どもの性』(宮台真司、山本直英、藤井誠二、速水由紀子、宮淑子、平野広明、金住典子、平野裕二、紀伊國屋書店、1998)という本もコーディネイトしました。すると各所で「ならば、親は子どもに何も言えないのですね」言われました。愚昧な理解です。そうじゃなく、最終的には自己決定なのだから、何を言ってもいいんですよ。
    僕は自分の子供に、「僕が言うことはだいたい間違ってるから、いろいろ言わせて貰うけど、最後は自分で判断してね。僕が言ったようにして失敗しても、僕は知らないからね」と繰り返し言い続けています。これは、アドラーの言う「課題の分離」に相当するコミュニケーションです。
    同じく僕は、「細かいヤツは人を不幸にする、特に過去をグジグジ言うヤツはそうだ。自分がやりたいことに比べれば全ては小さい」と繰り返し言い続けています。これは「未来の引力」に相当します。おかげで、僕が子供を叱ると、「パパの言うこと、いつも間違ってるもんねー」「パパ、それって細かいよー」と返すようになりました。成功です(笑)。

  • コミュニケーション・デザインの中核は、体験のデザインで、体験のデザインの中核は、時間のデザインです。時間軸への敏感さが不可欠です。「人間万事塞翁が馬」「終わりよければすべてよし」「雨降って地固まる」という諺があります。昨今の若い男女は、浮気バレですぐに関係が解消してしまうでしょう。ありえないことです。
    そうやって泡だったカオスの波が、時間が経って収束したとき、2人は以前とは違った場所に着地している。そのとき「あれがあったから、いまがあるんだな」と思えるようになります。そう思えるようになった関係は、すでに取り替え不可能なものになっています。そういう関係の履歴こそが唯一性という全体性を保証するんです。
    でも、昨今では多くの人がそうは考えず、「シロかクロか、いますぐ決着するぞ」とばかりに結果を欲しがります。あるいは、長い時間待つ場合にも「いい結果が出ること」への証明書を欲しがってしまいます。そこがとても大きな問題だと思っています。建築家はそうしたニーズに応えず、むしろ徹底的に介入的に振る舞っていただきたいと思っています。

  • 現在でもギークハウスとは名ばかりの包摂性を欠いた「シェアもどき」が増えてきたのかもしれない。量の増加は質の低下を免れ得ない。東日本橋から始まったギークハウスの初期理念「包摂」を如何に受け継いでいるかが、筆者の「シェアハウス」と「シェアもどき」の見分け方である。あなたの住む「ギークハウス」は、帰宅困難者を受け入れるだけの心の広さがあるだろうか?他人を「排除」するだけの「シェアもどき」になっていないだろうか?他人を入れ替え可能な「モノ」と捉えるような、浅ましい輩になっていないだろうか?人生のパートナーを計算づくでしか受け入れられないような、哀れな人間になってないだろうか?あなたが望んでいたのは、そんな砂漠のような感受性で生きる、スレッカラシの人生なのだろうか?
  • もしあなたが十把一絡げの「シェアもどき」で満足するというのなら、上辺だけの表層で戯れるのであれば、ギークハウスである必要はないだろう。しかし、もし、本当の意味で人生に響く体験をしたいなら、「シェア」という、取り換え可能であるがゆえに、入れ替え不可能な関係性を築きたいというのなら、そして、自分の子ども達に、浅ましい輩ではなく、立派な尊敬される人間になってほしいと思うなら、最もよいコミュニティは、ギークハウス元住吉、そしてギークハウス横浜だ。少なくとも、私はそう信じている。

 

  • 明日は@butchi_y さんです。

 

Her/ 世界でひとつの彼女

この記事はプログラマの映画 Advent Calendar 2015の4日目です。

筆者はプログラミング(Python)を、主に学術利用しています。職業プログラマーとはまた違った視点から、タイトルの映画を紹介します。

日本語公式サイトは以下

http://her.asmik-ace.co.jp/#Top

トレイラーは以下

宮台真司による批評は以下

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=1047

宇多丸による激賞はこちら

 

 

 

傷ついた代筆屋の男が、突然現れた声だけの人工知能OSを愛する物語です。先のレビューにあるように、ある意味で非常に保守的な顛末を迎えます。

私達は、まるでコードを書くことだけが、プログラミングかのように捉えがちです。PCを前にして、キーボードを叩きながら、文字列とにらめっこすることか「プログラミング」なのだと考えがちです。しかし、僕らだってある意味では「プログラムされた」存在です。人を殺してはいけない、他人のものを壊してはいけない、人のものを盗んではいけないetc。でも、自然界では親殺しも子殺しも、ライオンがシマウマを食べることも、樹の枝を折って、利用することも、弱い者から分捕って自分のものにすることも問題になりません。人間がそこに介入しようとすれば、自然界の秩序を壊すことになります。これは私達人間が、そのような社会を営むように、価値を伝達してきた、先祖代々プログラムを行ってきた結果です。

人工知能が進化すれば、いずれは映画にも描かれたようなOSが生まれることでしょう。主人公は確かに、現在の基準に照らし合わせれば愚かです。生身の人間でないものに恋し焦がれて、情熱と倦怠と破局、そして再生と別れを経験します。確かに、たかが人工知能にすぎないバーチャルなものを愛するのはおかしいかもしれません。

でも、ちょっと待ってほしい。恋愛や関係性というのはもともとバーチャルなものではないのでしょうか。極めて観念的です。結局は脳内でドーパミンが大量発生している状態で、酒を飲んで酔っ払っている状態、ドラッグを使用しているジャンキーと脳内における科学現象としては変わりません。お湯をわかすのに、電気を使うのか、ガスを利用するのか、はたまた薪を集めて火をおこすのかという違いだけです。要は「真実だとみんなが思っているから、その状況を支持する」わけです。

そもそもこういう問いを立てることすら可能です。あなたに恋人やパートナーがいたとする。あなたは彼女の頭をかち割って、本当に彼や彼女がロボットでないと確かめたのでしょうか?(本当にかち割らないように!)あるいは、映画のOSは本当に人工知能なのでしょうか?本当の人間が遠隔操作しているだけなのかもしれない。そもそも、その人物は本当に存在しているのでしょうか。あなたが映画「マトリックス」のように、コンピューターによって夢を見せられているだけだとしたら、そして、脳に電気信号が送られるように操作されているとすれば、それはドラッグとなんら代わりがない。

現実だとされているものよりも、仮想世界のほうが現実の確からしさを示しているとすれば、現実を生きることに意味はあるのでしょうか?(だからといって思いつめないで!)時が経てば、我々の価値観は変化し、プログラムの意味すら変わっているかもしれない。未来の人々は人工知能と恋愛し、試験管ベイビーを育てることがあたりまえで、昔ながらの(つまり現代の)生活なんて石器時代のものと変わらない、という価値観に変化しているのかもしれない。「プログラマー」という括りだって、近い将来なくなるのかもしれない。何かを埋め込むこと、それがプログラムの真の役割なのかもしれません。

明日は

masayuki5160@github

さんです。

 

 

Chromebook review

Chromebook review

  • ある敬愛するエンジニアの方から、Chromebook Pixel (2013)を貸与して頂いてから、半年ほど経った。使用感をレビューする。
  • 筆者の主な用途
    • Web browsing.
    • Programming(Python)
    • Writing(General and academic)
    • Schedule
    • Photo
    • E-mail
    • YouTube
    • MOOCs
    • SNS(Facebook,Twitter)
  • 基本的にChromebookでは、全てWebBrowserを通した作業になる。Cloud化が進んだことで、多くのデータはCloud上に保存される。どのマシンからでも、どこからでも、データ通信環境さえあれば、参照・編集できることが魅力だ。

気付いたこと

  • 所有することにこだわりがない人には向いている。
    • 用途によって違う。
  • ローカルで何かをしたいひと、手元にデータを置いておきたい人には向かない
    • オフラインが多い人にも向かない。
  • オンラインが多い人には向いている。
  • 会社・学校など、ハードを共有している場合は特に有効。
  • コンピューターを使って何かを製作する人にはいまいち。
  • Chromebook Pixel 2013はいい出来。程よい高級感。
  • 格安でもラップトップが制作可能なのはいいこと。
  • 教育目的に最適。各小学校に導入しては。
    • 大学に進学する層にも必要。スマートフォンだけでレポート・論文を執筆する猛者もいるらしいが、どう考えても質の良い文章は書けない。
  • ライトユーザーにとってはありがたい。
  • 飛行機で移動する人には不向き。
  • 頻繁にOSのUpdateが行われる。
    • セキュリティ上、とても健全。
    • Windowsよりも断然上。
      • というかWindowsはどうにかしろ。
  • サイバー攻撃に耐えうるOSは各国で独自のものを作る必要がある。
  • 10万円だと高い。3万円なら納得。
    • それでも10万円相当の満足感と高級感は存在するので、ぼったくられた感じはしない。
  • 学術的な用途には最適。
  • TORON OSをもう一度。
  • 信頼性・保守性・安全性・独立性・可読性が重要なので、自分には向いていた
    • というかPythonが好きな理由がわかった気がした。
      • 保守性・可読性は通じるものがある。
        • 数学の共通言語性
    • アングロフォン国のメソッドが好きな理由もわかる。
      • というか、日本の官公庁や大企業の文書は何をいいたいのかわからない。
      • 能力のある人が逃げ出すのも納得。
      • 「論文・ピラミッド型の文章の書き方」を小学校からやらないと、この国の未来は限りなく暗い。
        • 「読書感想文」の意味不明さ
      • 基本的に、結果勝負でいいと思う。テスト一発・論文一発で評価するのが本来の在り方。
  • 教育論まで話が及んでしまったが、要は情報の認知・処理能力に関わることをするのが教育の本質である。コンピューターは所詮その道具。
    • だんだんと道具が主体になってきている。
      • 道具に使役される人間というモデルは、あらゆる物語のモチーフになっているが、スマートフォン・タブレットが普及した現在は顕著に視覚化されている。
  • セキュリティ上、攻撃される可能性が比べ物にならないほど低いので、職場で堅牢なシステムを運用する上で参考になる。
    • MacOSでもワームが流通するようになった時代。
    • 「Macは安全」はとうの昔。
      • それでもWindowsに比べれば・・・・
        • 結局はCarnegie Mellon University の Richard Rashid  の開発したMachを根底にしているわけで。兄弟のようなものである。
  • PCをToolsとして使う人には、Chrome OSは向いている。
  • コンピューターそのものを作る人や、コンピューターの上で動くものを作る人には不向き。
    • エンジニアが一つしかLaptopを持っていないことは考えにくいので、サブ機として有用
  • ぶっちゃけ、タブレットがあれば現在の多くの日常的な作業はこなせるのではないか。そう考えると、ブラウザのみ動くChromebook はセキュリティと利便性を兼ね備えたOSである。
    • ライトユーザーの殆どが当てはまりそう。Desktopはかぎられた人々が使うものに変わりつつある。iPadなんて、一部ではDynaBookの概念を凌駕しているものね。

まとめ

使ってみて損はない。試しに一台買ってみよう。

   古いPCをChromebook化するものも。

以下リンク。

http://www.neverware.com/