Postmodern

先進国を幽霊が徘徊している。「ポストモダン」という幽霊である・・・・

マルクスの「共産主義宣言」の冒頭へのオマージュとしてこの言葉の解説と定義を始めよう。

以下の説明は、基本的には

「日本の難点」宮台真司 2009 幻冬舎新書

から引用された文章である。ポストモダンの概念について、筆者の説明はこの本から学んだことに多くを負っている。筆者自身は、ポストモダン概念自体はリオタールや他の思想家の原書から汲みとったものだが、日本語での説明として、これほどわかりやすいものもない。

カギ括弧内に含まれている文面は前述の本からの引用である。

以下、引用。

「社会の「底が抜けて」いるという事実と、その事実に気づいてしまうということは、別の事柄です。「ポストモダン化」という場合には、後者を意味します。分かりやすく言えば、誰もが”社会の「底が抜けて」いること” に気づいてしまうことが、「ポストモダン」という概念の肝なのです。」

「「するも選択、せざるも選択」というヤヤコシイ(=再帰的)社会を、そうでない近代社会から区別して、社会学者ギデンズは「再帰的近代」と呼びます。」

「「不作為もまた作為なり」という「再帰的」の問題があるからです。既に述べたように、「するも選択、せざるも選択」という等価性の只中に我々が立たされてしまうのが、我々の生きている後期近代=ポストモダンだからです。」

「「するも選択、せざるも選択」というポストモダン社会の再帰性は、社会の底が抜けた状態なので、「不安」を惹起しがちになり、選択の前提となる自明性が消えるので、「正当性の危機」が起こりやすくなります。」

「「するも選択、せざるも選択」という気づいた再帰的な(反省的な)人間が、どのように前に進めるのか、進んだら良いのか。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もそうした探求のバリエーションだと見做せます。」

「<生活世界>が次第に<システム>に置き換えられる過程が近代化です。手つかずの自然の状態と同じで、当初は手つかずの<生活世界>があるように「見えます」が(モダン)、汎<システム>化が進むとそうした素朴な見方は不可能になります(ポストモダン)。

近代社会学の父マックス・ウェーバーが計算可能性を保証する手続の拡大を「近代化」と呼んだことを踏まえて、哲学者のユルゲン・ハーバーマスは計算可能性を保証する手続が支配的な領域を<システム>と呼び、こうした支配がいまだ及ばない領域を<生活世界>と呼んだのです。

<生活世界>が<システム>に置き換えられる途上、すなわち近代化の過渡期には、<生活世界>を生きる「我々」が幸せになるために、<システム>を利用するのだと思えますが、近代化が進んで<システム>が全域化するにつれて、<システム>のこうした正統化は論理的に不可能になっていきます。

こうした時代がポストモダンです。ポストモダンとは、汎<システム>のせいで、「主体もまた構成されたものに過ぎない」という認識も含めて「選択の前提(主体、自然、構造・・・・)もまた選択されたものに過ぎない」という再帰性への自覚が拡がる時代です。自覚以前の段階がモダンになります。

近代はそもそも再帰的ですが、再帰性への気づきのない時代がモダンで、気づき以降がポストモダンなのです。気付きの違い「に過ぎない」という立場に立てば、ポストモダンは後期近代」と訳すべきですが、気付きによって意味空間が大きく変質する事実に鑑みれば、「近代の後」の訳も頷けます。」

以上、引用終わり。

この抜粋が、ポストモダンについて日本語で書かれた説明の中でも最も理解しやすいものの一つだろう。

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