シェアハウスとシェアもどき 分かち合いの系譜学

この記事はギークハウス Advent Calendar 2015 の8回目の記事です。


  • 書いている人はギークハウスの住民ではない。(ギークハウス元住吉の半住民を襲名?しています)
  • 筆者がよく訪問するのは、ギークハウス元住吉、ついでギークハウス横浜が多い。ギークハウス新丸子は前の2つと比べると、訪問回数が少ない。ときさば系やその他のギークハウスを訪問したのは片手で数えるほどである。よって、元住吉と横浜の話を中心に書く。それ故、本稿における「ギークハウス」の概念が、かなり偏ったものであることに留意頂きたい。

  • 筆者がギークハウス元住吉を最初に訪れたのは、 2012年の秋であったと記憶している。デヴィット・フィンチャー「ソーシャルネットワーク」を英語で見る会(アメリカの超一流大学院を卒業した人の解説付き。今考えるとかなり贅沢なことである)に参加したのが、ギークハウスというものの原体験だった。シェアハウス自体は、渋谷の某有名ハウスで体感していた。筆者がギークハウスを知ったのは、某有名シェアハウスでのパーティーの場である。
  • 元住吉は、某ハウスに比べると、随分と小奇麗だった。管理人が常駐しているのもあるが、整備が行き届いていた。今訪れても、日本一きれいなギークハウスというのは決して誇張ではない。渋谷の某ハウスがカオス(混沌)であるならば、ギークハウスはノモス(秩序)の空間である。
  • その当時の元住吉の住人は(今でも変わらないが)いい意味で生産的な人が多かった。筆者がプログラミングを始めたのは、以前住んでいた凄腕プログラマーの影響によるところが大きい。凄腕プログラマーの方でも、筆者の教養と知性を高く評価してくれている(と思う)。
  • ギークハウス元住吉では、毎週もくもく会を開催していた(現在は不定期開催)ので、週末はもくもく会、みたいな状況が半年ほど続いたことがあった。いろいろな方と意見交換や専門知識を教え合ったりして、筆者にとってはとてもよい刺激になった。興味のある方は、このブログで「もくもく会」」元住吉」で検索していただければ、まとめ記事が出てくる。よろしければご一読を。
  • 総じて、元住吉の切磋琢磨しあう雰囲気、専門知識を尊敬し、新住人を包摂する文化を私は好んでいる。後述するギークハウス横浜にも当てはまるが、新しく入ってきた人々を包摂することができなければ、そのコミュニティは必ず劣化する。
  • ギークハウス横浜は、率直にいえば、最初に訪れた時はあまり好きになれなかった。元住吉と某ハウスのイメージが強すぎたのだろう。(どちらとも極端な事例なので無理もない)
  • 今のギークハウス横浜はとても好きである。地域の人々と交流し、清潔感を増して、イベント開催にも積極的だ。古参の住人が新しい住人を包摂する文化もある。総じて、最も東日本橋から流れるギークハウスの精神、つまり、社会的な包摂と、新旧住人の対立を乗り越えたギークハウスの一つである
  • シェアとは何か。宮台真司がギークハウスを取り上げた対談でなかなか興味深い指摘をしている。以下の引用はすべて下記URLからの転載である。 http://10plus1.jp/monthly/2014/06/issue-2.php
  • 「シェア」が目立つようになったのは5年ほど前からでしょうか。その頃の夢あふれる感じは、シェアハウスの創立に関わった人々から失われて、人の善意を信頼するだけじゃダメという認識が拡がりました。3.11震災の際、ギークハウスが帰宅困難者にスペースを提供したのを起爆剤に「シェア」の考え方が拡がればいいと思ったのですが……。

  • ユルゲン・ハーバーマスの「生活世界」と「システム」という対概念です。マックス・ウェーバーによれば、近代化とは、計算可能性をもたらす手続きが各所に拡大することですが、そうして計算可能になった領域がシステムで、残りが生活世界ということになります。
    システムは、マニュアルに従って役割を演じられれば誰でもいいという具合に、人間を入替可能な道具として扱います。システムが導入された当初は、生活世界を生きるわれわれが、もっと便利で豊かになるための手段として、システムを使うのだと意識されました。ところが、システムが拡大し続けた結果、システム依存ゆえの本末転倒が起こります。
    第一に、ハーバーマスが言うように、生活世界を生きるわれわれがシステムを使うというより、システムが生活世界を生きるわれわれを道具にすると意識され、尊厳が脅かされます。第二に、災害社会学者レベッカ・ソルニットが言うように、巨大システムが災害や原発事故で破壊されれば、システム依存的な生活世界は一巻の終わりだと意識されます。
    第三に、昨今政治学領域でキャス・サンスティーンやジェームズ・フィッシュキンが言う通り、巨大システム依存と生活世界空洞化によって感情的安全を損なわれた人々の、不安と鬱屈を当て込んだ感情政治=ポピュリズムが、政治的暴走を招き寄せて、巨大システム自体をそれに依存する生活世界もろとも破壊してしまう危険が意識されます。
    3.11の原発事故で明らかになった、とりわけ日本人がシステムに過剰依存しやすい問題があります。システムは本来、山があり川が流れているという自然の自明性と違い、社会的アクシデントをきっかけに回らなくなる脆弱さを内包します。だから制度や人心の空洞化や機能不全がないように絶えずモニターし、随時メインテナンスする必要があります。
    ところが、丸山眞男が「日本人における作為の契機の不在」と述べたように、日本には、モニターとメンテナンスがなければ社会が回らなくなるとする発想がなく、自然がそこにあるように社会を自明なものだと見なす伝統があります。その結果、システムが災害で回らなくなる可能性が意識の外に押し出され、システムに過剰依存しがちなんです。

  • かくして〈社会はどうあれ、経済&政治は回る〉ようになります。先の言葉を使えば〈生活世界はどうあれ、システムは回る〉ということ。そうなればなるほど、(1)主客転倒で尊厳が奪われること、(2)システムクラッシュで一巻の終わりになること、(3)〈感情の政治〉(=ポピュリズム)でシステムが暴走する危険があること、などが意識されるようになります。
    論理的に考えると、これに抗う方法は、〈システムはどうあれ、生活世界は回る〉ないし〈政治&経済はどうあれ、われわれは回る〉と言えるような〈生活世界をシェアするわれわれ〉を再構築するしかありません。市場原理主義とは区別された相互扶助領域としての「狭義の社会」を──「広義の共同体」を──取り戻す他ないということです。

  • コミュニケーションは離合集散の流動性を高め、低い流動性を前提とした人格的信頼に関わる「立派/浅ましい」という伝統の二項図式が機能しなくなるかわりに、「うまくやる/しくじる」という二項図式が専らになります。動機づけには損得勘定の〈自発性〉ばかり蔓延して、内から湧き上がる利他や貢献欲である〈内発性〉が珍しくなります。
    浅ましい輩が後ろ指をさされるネガティブ・サンクション=罰が失われる結果、「悪貨が良貨を駆逐する」の類で、ネットにはますます〈感情の劣化〉と〈教養の劣化〉を反映したコミュニケーションが蔓延します。主題化された外交や内政の問題より、噴き上がる側の〈感情の劣化〉と〈教養の劣化〉だけが印象づけられる「2ちゃんねる」が典型です。
    ネットでは、インナーサークルでは「仲間外しの疑心暗鬼」と「プライバシー侵害の疑心暗鬼」が蔓延し、アウターサークルでは「匿名に身を隠した誹謗中傷への怯え」が蔓延します。こうした疑心暗鬼や怯えが、対面コミュニケーションでの不毛な過剰同調を招き寄せ、性愛においても友愛においてもストレスフルな日常になっているんです。

  • シェアハウスがうまくいかなくなるとすれば、その理由は畢竟、損得勘定を超える動機づけが乏しいからでしょう。〈自発性〉が優位で〈内発性〉が欠けるからでしょう。街づくりと同じで、人々がより便利で低コストならどこにでも転居しようと思っている場合、フリーランディングへの疑心暗鬼から、予めコミュニケーションをセーブしがちになります。
    僕は、周りの人たちが被ったシェアハウスの失敗を思考の材料にしているので、小手先の弥縫策はともかく、最終的には動機づけの形式を焦点化しない限り、さして稔りのある共同生活にはならないと思っています。先ほどの言い方を使えば、コスト低減が目的となるばかりで、かつての家族では不可能になったものを取り戻すことは目的になりえません。
    僕がやるワークショップが現実に提供できるのは、性愛コミュニケーションに稔りがない理由、シェアハウスに稔りがない理由、学校や会社でのグループワークに稔りがない理由を、洞察する力を与える所までです。大半の理由は損得勘定を超える動機の不足ですが、損得勘定を超えた動機とはどんなものか、「感じ」を摑んでもらうのも追加の目的です。

  • 大人は誰もが自分が育った時代の記憶を持ちます。自分がなにをどう体験をしたのかを吟味し、子供から奪ってはいけない体験がなんなのか気づく必要があります。むろん社会的リソースが違うので、かつて自分が体験できたものをそのまま再現はできませんが、いま使えるリソースをどう組み合わせて機能的に等価な体験をデザインできるかがポイントです。

  • 20年前に僕が世間に援助交際の存在を知らしめたとき、性の自己決定が大切だ、なにごとも自己決定が大切だと説き、『〈性の自己決定〉原論──援助交際・売買春・子どもの性』(宮台真司、山本直英、藤井誠二、速水由紀子、宮淑子、平野広明、金住典子、平野裕二、紀伊國屋書店、1998)という本もコーディネイトしました。すると各所で「ならば、親は子どもに何も言えないのですね」言われました。愚昧な理解です。そうじゃなく、最終的には自己決定なのだから、何を言ってもいいんですよ。
    僕は自分の子供に、「僕が言うことはだいたい間違ってるから、いろいろ言わせて貰うけど、最後は自分で判断してね。僕が言ったようにして失敗しても、僕は知らないからね」と繰り返し言い続けています。これは、アドラーの言う「課題の分離」に相当するコミュニケーションです。
    同じく僕は、「細かいヤツは人を不幸にする、特に過去をグジグジ言うヤツはそうだ。自分がやりたいことに比べれば全ては小さい」と繰り返し言い続けています。これは「未来の引力」に相当します。おかげで、僕が子供を叱ると、「パパの言うこと、いつも間違ってるもんねー」「パパ、それって細かいよー」と返すようになりました。成功です(笑)。

  • コミュニケーション・デザインの中核は、体験のデザインで、体験のデザインの中核は、時間のデザインです。時間軸への敏感さが不可欠です。「人間万事塞翁が馬」「終わりよければすべてよし」「雨降って地固まる」という諺があります。昨今の若い男女は、浮気バレですぐに関係が解消してしまうでしょう。ありえないことです。
    そうやって泡だったカオスの波が、時間が経って収束したとき、2人は以前とは違った場所に着地している。そのとき「あれがあったから、いまがあるんだな」と思えるようになります。そう思えるようになった関係は、すでに取り替え不可能なものになっています。そういう関係の履歴こそが唯一性という全体性を保証するんです。
    でも、昨今では多くの人がそうは考えず、「シロかクロか、いますぐ決着するぞ」とばかりに結果を欲しがります。あるいは、長い時間待つ場合にも「いい結果が出ること」への証明書を欲しがってしまいます。そこがとても大きな問題だと思っています。建築家はそうしたニーズに応えず、むしろ徹底的に介入的に振る舞っていただきたいと思っています。

  • 現在でもギークハウスとは名ばかりの包摂性を欠いた「シェアもどき」が増えてきたのかもしれない。量の増加は質の低下を免れ得ない。東日本橋から始まったギークハウスの初期理念「包摂」を如何に受け継いでいるかが、筆者の「シェアハウス」と「シェアもどき」の見分け方である。あなたの住む「ギークハウス」は、帰宅困難者を受け入れるだけの心の広さがあるだろうか?他人を「排除」するだけの「シェアもどき」になっていないだろうか?他人を入れ替え可能な「モノ」と捉えるような、浅ましい輩になっていないだろうか?人生のパートナーを計算づくでしか受け入れられないような、哀れな人間になってないだろうか?あなたが望んでいたのは、そんな砂漠のような感受性で生きる、スレッカラシの人生なのだろうか?
  • もしあなたが十把一絡げの「シェアもどき」で満足するというのなら、上辺だけの表層で戯れるのであれば、ギークハウスである必要はないだろう。しかし、もし、本当の意味で人生に響く体験をしたいなら、「シェア」という、取り換え可能であるがゆえに、入れ替え不可能な関係性を築きたいというのなら、そして、自分の子ども達に、浅ましい輩ではなく、立派な尊敬される人間になってほしいと思うなら、最もよいコミュニティは、ギークハウス元住吉、そしてギークハウス横浜だ。少なくとも、私はそう信じている。

 

  • 明日は@butchi_y さんです。

 

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