Lessig 2016

このブログはLawrence Lessigを支持します。

憲法学・サイバー法の第一人者であるローレンス・レッシグ(Lawrence Lessig)が大統領候補選出馬のためのクラウドファンディングを始めている。詳細は以下。

https://lessigforpresident.com/

彼の出馬理由は以下。

Why I want to run. (Lessig, Huffingtonpost)

http://www.huffingtonpost.com/lawrence-lessig/why-i-want-to-run_b_7971368.html

日本語記事は以下。

http://www.jp105.net/news-742802.html

寄付はアメリカ市民権を持つ人しかできないが、寄付できない人でも、できることはある。彼の著作を読むことだ。

彼の邦訳をまとめる。訳がプアなものもあるが、ないよりもよほどマシである。

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B7%E3%82%B0/e/B001HCW3ZK

おすすめは「Code ver 2.0」「Remix」の2つである。特にRemixは彼の著作の中でも読みやすいのでおすすめ。

邦訳されていないが、Lessigの著作はKindleでも格安で読むことができる。

http://www.amazon.co.jp/s/ref=la_B001HCW3ZK_rf_p_n_binding_browse-b_2?fst=as%3Aoff&rh=n%3A52033011%2Cp_82%3AB001HCW3ZK%2Cp_n_binding_browse-bin%3A2450764051&bbn=52033011&ie=UTF8&qid=1439427766&rnid=87851051

「Code ver2.0」や未邦訳の「lesterland」など、300円という価格でも読むことができる。スタバのコーヒーよりも、大きさによっては安いぐらいである。

「Code ver2.0」に関しては、PDFでの無料配布も実施している。これを読まないというのは人生を損していると言っていい。

http://codev2.cc/

Lessig の公式ブログ

http://www.lessig.org/

有志による日本語訳(ただし、更新が止まっている。)

http://japan.cnet.com/blog/lessig/

レッシグを応援しよう!

流しそうめん ギークハウス横浜

ギークハウス横浜 流しそうめんイベントに参加した。

もくもく会を開催させて頂いたり、高校の文化祭に殴り込み(ただ見学しただけ)をかけるときの拠点としてお世話になっているギークハウス横浜で流しそうめんが催されたので参加した。

いつものようにのんびり到着。買い出し組は既に出発したあとだったのでIWBTさんと数学の話をしながら、Chromecastの設置をする。Wifiの充実したシェアハウスというのはこういうときにありがたいものである。

KiさんとSSHRさん、Dさんにご挨拶。Dさんはスリムになってた。ムキムキ部の成果だろうか。Chromecastでリリスクを流す現代の若者たち。Bisもけっこうよかった。

流しそうめんは難儀を重ねながら、完成。みかんを流したりする。ひやむぎとそうめんの合わせ技はなかなか良かった。薬味を予め用意しておけばよかったなー。来年に活かそう。

IUEさんがいろいろとうまいものを作ってくださる。御殿場からいらっしゃったお二人も激ウマビールと激ウマソーセージという最高の組み合わせを持ち込んでくれた。こういう自発的な共有精神が、楽しみの一つである。本来の意味で、「みんな」に貢献する喜びを供給する回路として、数少ない成功例だと思う。

Chromecast大活躍。最初の一時間でみんな飽きるだろうと思っていたのに、マイケルジャクソンやT.M.Revolutionを流したら意外と盛り上がった。懐メロはいいですね。ビートルズは偉大。3歳児

こうした「情報を共有して楽しむ」ということが、これから没落が確実視されている先進各国において、数少ない明るい材料になるだろうと思う。日本は、これから間違いなく没落する。給料も増えない。会社もいつ首になるか、いつ潰れるかわからない。ポストモダン化によって再帰性が増した社会では、孤独が放置され、人々は鬱屈した感情を抱えたまま、不安に苛まれるがゆえに、不信が惹起されることになる。とても幸せとは言い難い状況である。

厳しい状況の中で、如何に孤独を手当するのか。如何に排除から包摂へ向かうか、ということが問題になる。鍵は情報だ。IT化によって、情報は、共有しても、減るどころか、場合によっては増える数少ないリソースの一つである。飲み会だって、みんなで持ち寄って集まれば、そんなにお金はかからない。安酒と音楽、それと少しの娯楽で余暇を過ごす知恵があれば、包摂的な共同体を維持できる。

絶望的な状況だからといって、絶望して生きるのはクダラナイ。絶望を知った人間にしか見えない希望がある。すべてを受け入れながら、不条理に身を晒しつつ、前進する生き方を初期ギリシア(主意主義)は奨励した。すべてが終わった、などということはない。覚悟して進むことが、まさに実存的に有効な構えだと思う。

いろいろと書きましたが、とても楽しかったです。またやりたいなぁ。主催者のみなさん、ご参加されたみなさんありがとうございます!

ギークハウス元住吉3周年記念パーティーに参加した。

いつもお世話になっている元住吉もいよいよ3周年である。パーティーがしめやかに行われた。

昼からボードゲーム会をやっていたので、途中から参加。アヴァロンはやっぱり面白い。でかいミスを笑って受け止めてくれるkvさんに感謝。

jさんから、手作りのガトーショコラを差し入れしていただく。うましうまし。いつもPythonでお世話になっていて、筑波山で話に花が咲く。一度登ってみたいなぁ。

いろいろな人と取り留めのない話をする。このゆるさが、長続きする秘訣だと思った。

ラブレターというアナログゲームをやった。これはパーティーゲームとして最適だ。IND神を倒す!

みんなで焼きそばを作ったりして、DIY感があるのがいい。やっぱり、自分たちでコミットすることが、一番実りのある共同体を作り出せると思う。

もくもく部屋で、哲学講義をした。住人の方は一生懸命つたない講義を聞いてくださる。ぼくが 元住吉を気に入っているのは、この切磋琢磨する人がコミットしているところである。まさに知識という最高の財産を我々はシェアしているのだと思う。そして、知識を尊敬して、行動するエリートを生み出せるかどうかが、最もシェア共同体において重要なことだと思っている。

T1さんと楽しい話をする。頭のよい方と話をするのは、つくづくと楽しいものである。

有限かもしれない。しかし、有限だからこそ、その時間というのは光り輝くのである。

ギークハウス横浜ゆるのみ#3に参加した。

・今回もケーキを持ち込んだ。好評を博す。

・雨が強くなりそうだったので、早めに到着する。SSHRさんと、Kさんおすすめのラーメンを食べてきた。うましうまし。

・なんだかいろいろと集まって、ポーカーやハゲタカをやる。ディーラーはなかなか面倒だ。ハゲタカは入門ゲームとして最適だったので、またやりたい。ボードゲームもっとやりたかったなー。

・咳がひどくて、まともに話ができなかった。

・フーリエ変換の話などをする。理系博士もいろいろと苦労があるもんだ。数学を学び始めていたので、基礎的な説明はわかった。さすがに最先端となると難しいねぇ。

・基本的にぎー横は元住吉と違った良さがある。欠点は清潔感ぐらいだろうか。雰囲気は好きだし、オーナーの方針や、住人の質も良くて、通いたいのだが、もうちょっと綺麗になれば・・・・・まあ、これは常駐する管理人さんが綺麗好きかどうかにもよるかな。

・僕がギー横で一番好きなところは、未だに初期のギークハウスの理念を受け継いでいるところだ。もちろん、厳密にいえば、違うところもあるかもしれない。それでも、ギークハウスのオープンソー
ス性や、住人の包摂性があるかぎり、生き残っていけるだろうと思う。これは、他のギークハウスも同じである。ギークハウスが包摂性を失った時に、多くの優秀な人々が離れて、ギークハウスの理念は形骸化するだろう。

・土砂降りの中をみんなで帰る。BBさんと登山の話をしながら、帰りにツムツムをやるおっさんとおねえさんを眺める。最近のゲームは進化しているなー。

・いろいろ書きましたが、基本的にはギークハウス横浜は元住吉と同じぐらいおすすめできるところです。また遊びにこよう。

ギークハウスゆるのみ@新丸子 に参加した。

  • 人が多かった。20人ぐらいきていたんじゃないだろうか。広いので入りきるのが、いつもの元住吉と異なるところである。キッチンも広い。
  • セブンワンダーズというボードゲームを初めて体験した。ゲーム自体はともかく、世界観は好きだ。古代の歴史が好きなので、こういうゲームは眺めているだけでも楽しい。
  • 性風俗と社会学について話した。熊本がすごい、みたいな下衆な話にもなったが、性風俗の社会学やフィールドワークは非常に重要である。社会をあるレイヤーから見た時、あるいは異なる立場を両立させるときの思考方法の断片を伝えたに過ぎなかったが、性風俗をアングロサクソンのように、社会的に認められないがゆえに悪で、それゆえに撲滅すべきだという立場ばかりがメインラインになっていくのは残念なことである。
  • 性風俗に関しては、逆説的だが、合法化して、当局の管理下に置くのが「社会学的に正しいやり方」である。過剰な取り締まりを行えば、却ってアンダーグラウンド化し、女の子が直接的な暴力に晒されやすくなり、無法化が進む。店舗型風俗店規制によるデリバリーヘルスの活況と「生本番競争」と「性病の蔓延」を防ぐには、合法化しかない。目障りだから、と単純に排除するにはあまりにも複雑な問題である。
  • ドミニオンも初めて体験。ビギナーズラックで優勝した。なかなか面白いが、時間がかかりすぎるのが欠点かな。
  • 新丸子は路が入り組んでいるので、ちょっと迷った。
  • バナナ差し入れ。手軽で、すぐに食べられるのでいいと思った。
  • こういったコミュニティは「ある種の価値を提示できるかどうか」で単なる馴れ合いの「シェアもどき」と判別できるだろう。「与えるがゆえに与えられる」というシェアをできる人間と、できない人間に分かれていくのだろうと思う。ギークハウスがその価値を提示できているのかもしれない。無論、排除的なフリーライダーも歩留まり的に混じってくることもあろう。そのときに「自分たちはこういう価値に基づいている」と言い得る組織だけが生き残っていける、少なくとも、家族代替的な関係を築けるだろうと思う。
  • 人間の能力は二重底で、単なる能力(プログラミングができる。料理がうまい。世界的なネットワークを持っている。仕事に対する専門知識がある etc) と「能力を発揮する<能力>」とでもいうべき、メタ的な力の関係があると思っている。どんなスポーツ選手も、重度のインフルエンザに罹っていたら、百%の力を出すことができないのと同じである。必要なのは、ベースを創りだす能力だ。ギークハウスが、ホームベースの一つとなれるかどうか、新しい住民と知識を旧住民が受け入れ、価値観に基づく包摂性を保てるかどうかが、これからのギークハウスの中点なのかもしれないと感じた。

“One Hundred Years of Solitude”

ガブリエル・ガルシア・マルケスの最高傑作「百年の孤独」を少し前に読みきった。この小説を読むことができることに感謝したくなる作品である。

あらすじは、それこそ検索すれば日本語でも出てくる。それに、およそ小説のあらすじというやつほどつまらないものはない。最短ルートを辿ることにも意味があるが、読書という精神世界への旅は、まさに自分で曲がりくねった路を歩くことにある。自分の代わりにほかの人に旅をしてもらっても、その十全たる感動を共有できないのと同じだ。

登場人物の家系図が冒頭についているが、心配しなくていい。どんどん忘れればいいし、名称の忘却を促してさえいるように思えるぐらいだ。むしろ忘却によって出来事と関係性を強烈に脳裏に焼き付けるような印象がある。

3000円は安くない。高校生なら映画館デートができる。大学生なら飯が食える。一般人ならショットバーで三杯は飲める。所帯持ちなら花束を贈れるし、子供がいれば外食ができる。だが、これだけ安くて芳醇なラテンアメリカの果実を何度も味わえるのなら、その価値ありだ。一度ぐらい違う方を選んでみるのもありかもしれない。

およそ書評や批評というのは「まあ、だまされたと思って手にとってごらんなさい、見てご覧なさい、聞いてご覧なさい、味わってごらんなさい」というのがその大きな役割であると思う。

梅雨が始まろうとしている。晴耕雨読の日々を考えているかたには、是非ともおすすめしたい一冊である。

以下、百年の孤独 日本語訳のアマゾンリンク

http://ow.ly/NbqVP

Postmodern

先進国を幽霊が徘徊している。「ポストモダン」という幽霊である・・・・

マルクスの「共産主義宣言」の冒頭へのオマージュとしてこの言葉の解説と定義を始めよう。

以下の説明は、基本的には

「日本の難点」宮台真司 2009 幻冬舎新書

から引用された文章である。ポストモダンの概念について、筆者の説明はこの本から学んだことに多くを負っている。筆者自身は、ポストモダン概念自体はリオタールや他の思想家の原書から汲みとったものだが、日本語での説明として、これほどわかりやすいものもない。

カギ括弧内に含まれている文面は前述の本からの引用である。

以下、引用。

「社会の「底が抜けて」いるという事実と、その事実に気づいてしまうということは、別の事柄です。「ポストモダン化」という場合には、後者を意味します。分かりやすく言えば、誰もが”社会の「底が抜けて」いること” に気づいてしまうことが、「ポストモダン」という概念の肝なのです。」

「「するも選択、せざるも選択」というヤヤコシイ(=再帰的)社会を、そうでない近代社会から区別して、社会学者ギデンズは「再帰的近代」と呼びます。」

「「不作為もまた作為なり」という「再帰的」の問題があるからです。既に述べたように、「するも選択、せざるも選択」という等価性の只中に我々が立たされてしまうのが、我々の生きている後期近代=ポストモダンだからです。」

「「するも選択、せざるも選択」というポストモダン社会の再帰性は、社会の底が抜けた状態なので、「不安」を惹起しがちになり、選択の前提となる自明性が消えるので、「正当性の危機」が起こりやすくなります。」

「「するも選択、せざるも選択」という気づいた再帰的な(反省的な)人間が、どのように前に進めるのか、進んだら良いのか。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もそうした探求のバリエーションだと見做せます。」

「<生活世界>が次第に<システム>に置き換えられる過程が近代化です。手つかずの自然の状態と同じで、当初は手つかずの<生活世界>があるように「見えます」が(モダン)、汎<システム>化が進むとそうした素朴な見方は不可能になります(ポストモダン)。

近代社会学の父マックス・ウェーバーが計算可能性を保証する手続の拡大を「近代化」と呼んだことを踏まえて、哲学者のユルゲン・ハーバーマスは計算可能性を保証する手続が支配的な領域を<システム>と呼び、こうした支配がいまだ及ばない領域を<生活世界>と呼んだのです。

<生活世界>が<システム>に置き換えられる途上、すなわち近代化の過渡期には、<生活世界>を生きる「我々」が幸せになるために、<システム>を利用するのだと思えますが、近代化が進んで<システム>が全域化するにつれて、<システム>のこうした正統化は論理的に不可能になっていきます。

こうした時代がポストモダンです。ポストモダンとは、汎<システム>のせいで、「主体もまた構成されたものに過ぎない」という認識も含めて「選択の前提(主体、自然、構造・・・・)もまた選択されたものに過ぎない」という再帰性への自覚が拡がる時代です。自覚以前の段階がモダンになります。

近代はそもそも再帰的ですが、再帰性への気づきのない時代がモダンで、気づき以降がポストモダンなのです。気付きの違い「に過ぎない」という立場に立てば、ポストモダンは後期近代」と訳すべきですが、気付きによって意味空間が大きく変質する事実に鑑みれば、「近代の後」の訳も頷けます。」

以上、引用終わり。

この抜粋が、ポストモダンについて日本語で書かれた説明の中でも最も理解しやすいものの一つだろう。